(2/2)ゲームプレイと物語の伝達において、この決断が必ずプラスに働くであろう確信が我々にはあります。但し本作でプレイヤーキャラクターを視認できる場所がなくなるわけではなく、所持品画面、運転時、鏡にて確認できるほか、ごく一部のカットシーンでも表示されることをお知らせします。
— CD PROJEKT RED Japan (@CDPRJP) September 2, 2019
Cyberpunk2077のカットシーンを一人称視点中心にすることにしたらしい。
没入感の最大化が重要だとのことです。
ただ、一人称視点=没入感が高い、というだけだと、納得しにくい。
さらに言うとカメラを自身に固定することで、カメラを使った演出に制限をかけることにもなる。
映像表現の最大化を放棄することになる。
没入感に全振りするということ。全振りした結果、よりプラスだと確信していると。
そんな「没入感を超えた没入感」が存在するのか、そんな没入感特化をみんなが求めているのか、受け入れられるのか、ということだと思う。
天秤にかけてプラスだとの決断だと書いているけども、やっぱりそこには経営的、予算的なところもないわけじゃないわけで。
チャレンジングな試みだから結果的に、不評~賛否両論に終わる可能性もあるけど、誰かがやらなきゃいけない失敗なのかもしれないと思えば、まだ救いはあるか。
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